昨年一年間をかけて鎌倉峯山(標高98m)のアズマネザサ(通称篠竹)を全て切り払いました。高さが4mを超すほどに生い茂った中にあるヤマザクラを保護するためです。
その結果、9000平方mほどの山頂周りに巨木9本を含め92本もの山桜を保護することが出来ました。
中には無残にも枯死したり倒れていた桜もたくさんありました。圧巻は、幹回り3mほどの巨木です。何本かありますが、いずれも太い藤蔓に幾重にも巻き付かれていて、息苦しそうでした。
今までは、花びらが散っているのを見て初めて桜の木の存在を知るありさまでしたが、今年は違います。根元から頂上まで全貌を見上げることが出来て感無量の思いです。
残念ながら、頂上部にしか花がついていません。そのため花の鑑賞には首が痛くなります。これは、藤蔓や並立するミズキやカシ・シイなどの高木の影響です。今年は周囲の状況が様変わりしたので来年はもっと沢山の花芽をつけてくれることでしょう。
峯山の山頂はちょっとした広場になっています。そして周囲に桜が植えられています。
多分昔からの花の名所として親しまれていたのでしょう。
峯山の東南麓は、鎌倉時代に北条氏一族の別邸が置かれていたところで、今は国の史跡に指定されています。想像を逞しくすれば、北条一族もここで花見の宴を開いたかも知れません。
上掲の絵は、その想像図です。主客は別邸の持ち主であった北条政村のつもりでしたが、政村が連署を務めたころの執権は北条時宗です。それで、むしろ時宗公の方がよりふさわしいのではないかと思えてきました。
視線の先には、頼朝が築いた港である和賀江島があります。おそらく当時の元の状況を探るには海からの情報が欠かせなかった筈です。蒙古再来にどう備えるか頭を悩ましていたことでしょう。その様な折りに峯山の花見は、ひと時の安らぎをもたらしたと思います。
因みに時宗公の背後にある桜の位置には、今でも巨木があります。仲間の一人が樹の直径から樹齢を推定する計算式を導き出しました。それによると250年を超えるようです。10代将軍家治の頃で、田沼意次や伊能忠敬が活躍した時代となります。
昔からここに大木があったので後世の人がそれを引き継いできたものでしょう。
この場所からは富士山も見える眺望の良いところです。古い苔むした石組みなどがあることから鎌倉時代には物見台や狼煙台が置かれていた可能性もあります。
これからも鎌倉峯山の会として、この周辺のヤマザクラを後世に残すための活動を行いますが、時宗公もここで花見をしたことが分ればずい分と励みになります。
今のところ、切り拓いたところから出てくるのは、一升瓶やビールの空き瓶くらいですが、そのうちに「かわらけ」や宋銭などが出てくるかも知れません。
でも、そうなると国の史跡に指定されて立ち入り禁止になるかな。時宗公に笑われそうな卑小な悩みですが、それはちょっと困ります。
蛇足ながら、絵に描かれている覗き見している農夫は私の先祖(のつもり)です。
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