201404赤城山麓
  (空襲の時にはこの辺りまで逃げ回った)
終戦の年は、低学年の小学生でした。
当時、父が市内を離れた農村部に建てた小屋にいることが多く、学校に行った記憶は殆どありません。農家の子供たちと山を駆け回ったり、小川で釣りをしたり、仕掛けに掛かったウナギや川魚を探し回り、そして大事なのは焚き木を拾い集めることでした。

小屋は、一間だけの掘っ建てに近い粗末なもので、中央に大きな囲炉裏が切られていました。煮炊きは全てここで行います。つまりいつも焚き火をしているわけです。今考えると私の焚き火好きもこの辺りに遠因がありそうです。

あの日、つまり八月十五日に、集落の中のある家に、近くの人全員が呼び集められました。
その家にはラジオがあったのです。大人たちは直立不動、老婆などは地べたに正座をして玉音放送を聞きました。「朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み・・・」という終戦詔書は、何も理解できませんでしたが、大人たちの挙措から戦争が終わったらしいことは推察できました。

あの時の印象は、兎に角暑かったことと蝉の鳴き声と雲一つない青空くらいですが、これで空襲がなくなるとホッとしたはよく覚えています。それ程に空襲は苛烈でした。
近くに中島飛行機があったせいで前橋はよく空襲を受けました。

最初のうちは夜襲でした。夜に警戒警報のサイレンが鳴り響くと、何も持たずに赤城山の麓の農村部を逃げ回っていました。焼夷弾が投下されると周りが昼間のような状態になり、その中を人々が逃げ惑うさまが浮かび上がります。それを目がけて爆弾が落とされ、機銃掃射が行われます。

夜が明けてからがまた地獄です。屍をまたぎながら、あるいはどこか負傷したのかごろごろ転げ回る人を避けたりしながら、幼い兄弟の手を引き、草臥れ果てた母を庇いながら家路に急ぎました。とても他人に拘わっている余裕はありませんでした。父は食料調達のため大抵疎開小屋にいたのでリーダー役は私が担っていたのです。

そのうちに昼日中の空襲に変わってきました。B29が巨体をきらめかせながら伊勢崎辺りの上空を飛行してくるのをよく眺めていました。当然地上から高射砲で応戦します。ところがこの高射砲の弾がB29に届かないのです。その頃わが軍の戦闘機は払底していたのか殆ど飛びませんでした。戦力の圧倒的な差は小学生の私にも一目瞭然です。これでは空襲が昼間に行われるのは当たり前です。

この空襲で、グラマン戦闘機に襲われたことがあります。私個人がです。
友人の家にいたときに空襲警報が鳴り、家に帰ろうと道を歩いていました。周りには人っ子一人いません。その時突然グラマンが現れ道路沿いに機銃掃射を行いました。物陰に隠れてやり過ごしたあと、再び歩き始めた私に、あろうことか先ほどのグラマンが引き返してきて再び機銃掃射を浴びせてきました。今度はかなり低空飛行で、操縦士と目が合ったような気がします。恐怖が全身を走ります。明らかに私一人を狙っていることに気づいたからです。

後から考えたことですが、この時の操縦士の心境は、バカにされた思いで報復行為に出たと思います。敵は全く無抵抗状態の中を思うがままに蹂躙していたわけです。
それを、道の中にちょろちょろしている人間が一人いる。目障りだ! とても許しておけんとなったのでしょう。

一人の民間人に対して戦闘機でもって狙い撃ちにする。しかも二度までも。コストパフォーマンスからいえばあり得ない行為ですが、戦争というのは、こんなことがまかり通る実に異常で不条理な事態であることを証明しています。

教皇ヨハネ・パウロ二世は、ヒロシマに来られた時に「戦争は人間の仕業です」と言われました。戦争とは敵、味方を問わず、どうにもならぬ常軌を逸した行為に走らせます。
その意味でも決して許してならぬものだと痛感します。

同じことは原発にも言えます。メルトダウンしたら人間は制御できません。制御できない事態になる前にやるべきことは再稼働の中止であり、廃炉しかありません。

戦争、原水爆、原発、いずれも人間由来の事象ですが、それらがどんな事態になっても人間が対応でき、制御出来ると思うのは幻想であり、驕りです。
ひどく大袈裟な話しになりましたが、これは、一人の小学生の感想文です。お笑い下さい。
何れにしろ、人間の出来ること、出来ないこと、そしてやってはならぬことを見極める叡智が望まれるところです。

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