( 畑の栗 )
今年はじめて金木犀の香りを感じたのは9月22日の晩でした。見上げると花はあまり見えません。翌日改めて見直すと花はもうすっかり咲いていました。ラベンダーと同じで、花の咲く直前に一番香りが立つようです。
夜になると虫の音が一段と高まっています。もっともこちらは最近耳鳴りがするようになったのでやや紛らわしいですが。そして、この時期になると空気も冷えてきて月も冴えてくるのでお月見の適期となります。
月を賞でるのは日本人特有の習慣だという人もいますが、そんな事もなさそうです。西洋音楽には月をテーマにした名曲が沢山あるし、中国の詩歌にも月を主題によく詠まれています。また、月光には過去の追憶を促す力もあるそうです。
私が月を意識したのは幼稚園児のころでした。酔っぱらった父の操る自転車の荷台に乗せられて、夜の山道を走っていた時に急に視界がひらけ、一面の銀世界が目に飛び込んできました。それは、山の斜面の草原に月の光がいっぱいに注いでいたせいです。
後年、李白の詩「静夜思」に接した時、これだ!これだ!その表現力に感じ入ったものです。 牀前看月光 疑是地上霜 擧頭望山月 低頭思故郷
その後同じような光景は殆ど見ていません。どうも人口的な光があるところでは現れないようです。ある種の光害です。幼児体験が尾をひいているのかお月見はよくします。
会社の山岳部主催の丹沢お月見ハイクに参加したこともあります。バカ尾根を塔ノ岳目指してひたすら登るのですが、昼間と違いずいぶん楽な登山でした。
仲間と一緒に十三夜を愛でるために箱根仙石原のススキ原を歩いたこともあります。
自宅でのお月見では、ススキやリンドウを飾り、団子と栗を供えて杯を傾けます。
近所のお年寄り招いて毎年楽しんだものです。
当初は、わが居室善作庵から月が望めたのですが、月が出る方向にあるニセアカシアが段々と高くなり、仕方なしにベランダに膳を出すようにしました。
しかし樹勢は一気に加速し、今では月が中空にまで上がらないと見られなくなりました。それで、いつとはなしにお月見の宴とは縁遠くなりました。
木でも竹でも生き物ですから当然成長します。原生林ならばいざ知らず、人間生活と関わりのある場所では、何らかの手入れは欠かせません。今、里山と言われているところではその弊害が問題視されています。
山の中では倒木が道を塞ぎ、放っておけば山全体が竹林になりかねいところもあります。
私の住む地域の里山である峯山でも樹齢200年以上と思われる山桜が群生していますが、ツタに覆われ、周りは篠竹が密生し近づくこともできません。そして下からは猛烈な勢いで竹が進出してきています。
この現状を改善するために「山桜を後世に残そう」とのスローガンのもとに保護活動と周囲の散策路の整備活動を始めました。週一ほどのペースですが着実に成果が上がってきています。
山全体を覆いつくす篠竹や竹を切り拓くと、富士山の絶景ポイントを確保できました。また山頂付近では、遠く荒崎や城ケ島まで見渡せる壮大な海の景色が出現しました。
今年は、この山頂でお月見も出来るのではないかと思い、せっせと竹切りに汗を流しています。ここでならば「疑らくは是れ地上の霜かと」の世界が見られるかもしれません。
>>>>エッセイ放生記 毎月二回(1日、15日)発行予定<<<<
お読み頂きありがとうございます。下記釦のクリックをお願いします。励みになります。