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   (安曇野 中房温泉 白糸の湯)
中房温泉をご存じでしょうか。
山好きの方、ことに北アルプスに行かれる方にはお馴染みの温泉です。アルプス銀座の一角、燕岳の麓にある登山基地ともなる温泉宿です。

20代前半のころ、会社の先輩に誘われて常念岳に登ったことがあります。3000m級の山は初めてのことで、訳も分からずついていきました。大糸線の豊科駅から歩きだし、三俣まで平坦ですが、ここからいきなり直登コースです。常念小屋には暗くなってから着きましたから10時間くらいの行程です。

さすがに先輩も疲れたのか、うつ伏せになり背中に乗って足踏みせよとご下命がありました。翌日は大天井岳、燕岳と縦走し大糸線有明駅までの強行軍です。この時に中房温泉の脇を通りました。湯煙上がる湯治場で、ここで一休みかと思ったら終列車に間に合わないからと一蹴されました。

浴衣姿で寛ぐ人たちがどれ程うらやましかったことか。いつかここに泊まりに来てやると思いながら通り過ぎました。爾今、何度かチャンスはありましたが願いは叶わず今に至っていました。

今年の梅雨入りは早そうだと話題になる頃、思い切って出かけることにしました。手術した目の調子がどうもよくないので、運転出来るうちに念願を果たそうと思ったのです。

最初の願望から何と50年以上の歳月が経過しています。私なりの感傷旅行です。連れ合いをそれだけに付き合わせるのも気の毒なので、前日は山岳眺望で名高い美ヶ原の王が頭に宿をとり、少しばかり埋め合わせをしました。

美ヶ原から浅間温泉経由で安曇野に入り、中房温泉に向かいました。さすがに舗装はされていますが、道は狭く、オーバーハングする大岩の下を通る難所続きの山道です。
雨の降るなか、道の行きどまりにある温泉宿についた時は正直ほっとしました。

中房温泉は、かのウエストン卿も宿泊した部屋も残されている老舗温泉宿です。江戸時代には松本藩主もしばしば訪れて、御座の湯と称することを許されている名湯です。さらに遡れば坂上田村麻呂にまつわる伝説もある由緒ある古湯でもあります。
宿は、湯治宿や登山基地としての山小屋の歴史が長いので、お世辞にも綺麗とか快適とは言い難いのですが、それなりに趣きがあります。

ここには内湯、外湯合せて16カ所もの湯があります。まずは古風な渡り廊下で結ばれた不老泉に入りました。高い天井の建物に石組の湯船が設えられて、一面が解放されて外に繋がっているので露天風呂の気分が味わえます。

湯は、黒褐色のとろりとした肌触りのよい単純硫黄泉です。硫黄臭は殆どなくアルカリ泉のような感じです。

翌朝に、宿から山道を数分上ったところにある白糸の湯(上掲の絵)に入りました。
岩の割れ目に沿って一条の糸のように源泉が流れ落ちています。滝壺の湯の温度は93度Cもありますので、これを四段構えの湯船で受け渡して人が入れる温度にしています。

目の前を流れる中房川のせせらぎと野鳥の囀りを聞きながら岩風呂に浸かり、はるか昔の山旅に思いを巡らせました。まさに感傷旅行そのものです。

過ぎ去った過去は一瞬の出来事のように思えます。それなりに山あり谷ありの人生ですが、全てが幻影のようにも感じられます。今、こうやって湯に浸っているこの瞬間こそ、まことの現実であり、その幸せを肌で感じます。

裸だから肌で感じるのは当然ですが、究極の露天風呂だからこそ感じられる、心と感覚の一致を楽しんでいました。ということで、温泉はいいなあ、という安直な結論がこの旅のしめくくりとなりました。

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