web茅ヶ崎和船
冬の日差しの中、パイプをやりながらあれこれ考えていました。思いはあちこち飛び跳ねて、そもそも何を最初に考えていたのか分からなくなりました。これはいかん!認知症の兆候ではないかと慌てました。

ふと、以前似たような状況に陥ったことを思い出しました。子供のころの夏休み体験です。いきなり真夏の話に飛んで恐縮ですが、なにしろ初期認知症の身ですからご容赦願うとして、話はこうです。

夏休みになると、子供達だけで赤城山に登り数日間滞在するのが恒例となっていました。
物資のない時代ですからテントなどありません。トラックのシートを借りて、竹竿にぐるぐる巻きにしてこれを替わりばんこに担いで歩きます。日が落ちてから出発し、夜通し歩いて山頂の湖畔に着きます。

持ち物と言えば、僅かなコメと味噌だけです。野菜などは、途中で夜陰に乗じて畑のものを失敬します。落語の貧乏長屋の花見さながらの行列です。
湖畔の人目につかない場所にシートをはると、焚き木拾いや川に魚とりの仕掛けを作って自給自足の体制を整えます。

ある年のこと、湖畔に古びた一艘の櫓漕ぎ舟を見つけました。坊主たちが見逃すはずもなく、歓声を上げて湖に出ました。ワカサギやもっと大きな魚も期待できるはずだからです。
そのうちに、船底が痛んでいるのか舟の中に水が入ってきました。空き缶や手で掻き出していましたがとても追いつきません。だんだん舟が沈んでいく頃には日も陰りはじめ、もう半狂乱状態です。もとあった場所に戻ろうと懸命に漕ぎますが、だれも操船経験などありませんから右往左往です。

この時に初めて気づいたのですが、出る時には、目の前のどこでもいから何となく舟を出せたのですが、帰りは違います。還るべきところは一点です。難しさは比較になりません。幸い沈没寸前に何とか岸に辿り着いたのですが、もう全員討死状態です。

冒頭の話に戻りますと、漂い出た考えを元に戻すのは大変だという現象に似ています。
こういう昔話しは思い出すのに、肝心の現状について解決できないのは、これまた、認知症の証ではないか。やばい、やばい。

私の母も晩年は認知症がかなり進行していたので、この病は多少分かっているつもりです。しかし、いざ自分自身のこととなると、どうなるか全く自信がありません。

私は、ずい分前から年初に今年の生活信条として何項目か書き出しています。大抵はすぐ忘れるので、まあ気休めです。
その中の一つが前にも書きましたように「今ここに!」です。深い意味は別にして、いま目の前に拡がるものが自身にとって全てである。そのことに真摯に対応せよと解釈して、もう一つの「何事もあるがままに受け入れる」とセットで実行したいと願っています。

認知症に限りませんが、老化に伴ういろいろな機能障害は不可避なものです。こうなった場合でも柔軟に現実を受け入れる心の準備をしておこうという魂胆ですが、何年も同じ項目が続いているは、これが私にとっていかに困難なものであるかを示す証左です。
第一、このような訓練が終末期に生かされるのかどうかも定かではありません。

また話が飛びますが、平安期にはじまった補陀落渡海というのがあります。悟りを開いた高僧が紀州熊野の補陀落山寺から舟を出して、南方の観音菩薩の住まいする浄土に生身のまま向かうのですが、ある年、大勢の民衆に囲まれて沖に出て、ここでお別れと最後の一押しをした時に、誦経していた僧が突然助けてくれと叫びながら大暴れしたそうです。それ以降、舟に乗ったあと中から開けられないように戸を釘づけしたと記録にあります。

私も最後は大暴れしそうです。暴れないまでも、従容として死に従うなぞとても無理です。そういう意味では、老化して認知症になるのも悪くはないと思えてきます。周りが困るという問題は残りますが、本人からしてみれば、そんなこと、知ったこっちゃないです。

     >>>>エッセイ放生記 毎月二回(1日、15日)発行予定<<<<
お読み頂きありがとうございます。
下記釦のクリックをお願いします。励みになります。