正月の町中を歩きながら考えています。朝風呂に入ってから町に出てきましたが、特に目的があるわけではありません。しいてあげれば人見物でしょうか。
司馬遼太郎さんも人物ウオッチングが趣味だったようで、奥様の述懐によれば、旅に出ると車内やら食堂やらでいつも人物観察をしていたそうです。
私の田舎でも、何もすることのなくなった老人が、店先や道端に出て日がな一日道行く人を眺めていたものです。人間最後の究極の楽しみといってもよいかもしれません。
今年の初散歩は、元日に初日の出を見に行った峯山(いま、山桜の保護活動に精をだしています)を経由して寿福寺に抜け、八幡宮に向かっています。
普段歩きなれた道ですが、正月になるとまるで別物のような景色となります。一言でいえば、清々しさを感じるのです。
ふと、むかし読んだ高見順のエッセイを思い起こしました。詳しくは覚えていませんが、東京でガン告知を受けた筆者が鎌倉の自宅に帰る横須賀線の車窓風景を書いています。
戸塚を過ぎて緑が濃くなる北鎌倉辺りになると、風景が一変し、いのち溢れる、限りなく愛おしいものに見えてきて思わず涙したというのです。
いつも見慣れた風景が、見る人の心情次第でかくも変化するさまを的確に描いていて心に残りました。
ところで、今向かっている場所は八幡宮近くの玄という珈琲専門店です。少々お高いので正月くらいしか行きませんが、珈琲の淹れ方が見事なのです。許可を得て写真にとりましたが、まるでカルメ焼きのように膨れ上がった様は素人には真似できません。この珈琲を飲まないと正月気分になれないのです。
この後、人混みにもまれながら、連れ合いの幼馴染の店で挨拶を交わしたり、骨董屋や陶磁器店をひやかしながら歩きます。つまり人見物です。
突然嫌なことを思い出しました。今日は4日なので遭遇しませんが、例年三が日にはキリスト教の一派が背中にスピーカーを背負って徘徊しています。大勢の人に神の愛と正義を教えようとしているのでしょうが、あれでは逆宣伝のような気がします。
八幡宮に向かうのは、信仰心もあるでしょうが、私のように正月気分を味わうために出てくる人も多いでしょう。おとそ気分を逆なでするような宣教活動は如何なものかと思っていました。
しかし、高見順を思い出したせいか、また実際に遭遇していないせいか、あれはあれでお正月風景の一つかと思えてきました。これは、私が心の平安を保っているからなのか、あるいは、世の中を達観する老境に入ったことを意味するのか、やや複雑な心境です。
駅近くに来たときに、連れ合いにメールが入りました。娘が子供連れで駅前の居酒屋にいるとのこと。昼抜きで歩いていたので、渡りに船と合流しました。
亭主が出勤なので気晴らしに鎌倉見物にきて寛いでいたらしいです。
どこの店も空き席がない状況なのに、この店だけが閑散としています。よくこんな店を知っているねと問うと、若い頃にここでバイトをしていたと言います。
人生には何一つ無駄なことはないと言いますが、こんな場合にも使うのかよく分かりませんが、何となく納得している自分がおかしくなりました。
今年は、このような小さな幸せを重ねながら暮らしていければいいかなと思っています。
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