放生記

雑草と共生する自然農をやっています。大好きな焚き火をしながらあれこれ 浮かんでくる事柄をエッセイにまとめました。 どんなものが生えてくるやら自分にも分かりません。時には水彩画のスケッチを添えます。

ヨット教室の成果

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      (ウインドウサーフィンの講習風景)

 材木座海岸でウィンドウサーフィンの受講生を見ていて思い出しました。ずい分昔、昭和の頃の話ですが、ここでヨット教室を開いたことがあります。だれが?って、他ならぬ私が仲間と一緒に開いたのです。
ある時、友人が耳よりの情報を持ち込みました。訳アリのY15クラスの艇が格安で入手できるというのです。それまで大学ヨット部から払い下げられたAクラス・ディンギーのボロ舟に乗っていたのですが、Y15はジブセール付きの2枚帆の上、本体もグラスファイバー製で軽いので帆走スピードがまるで違います。この話に飛びついて仲間と共同購入しました。

訳アリの一つは、艇本体の側面が波打っていることです。硬化剤の配合をミスしたようです。もう一つはセールの面積が少し大きいのです。こちらは裁断ミスらしいです。レギュレーション違反ですから正式レースには出られません。しかし、地元のローカルレースではそんなチェックはしませんから結構楽しみました。

乗ってみると艇の歪みの方が問題でした。ヨットの性能で重要視されるのは切り上がり性能です。これは、風上に対しどれだけ鋭い角度で走れるかを示していて、これが甘いと目的地に対し遠回りして走ることになります。まあ、致命的な欠陥です。

それで、レースの時に風が強いと初めから諦めます。しかし、弱いときには俄然意気込みます。帆の面積がものをいうからです。殆どなぎに近い微風の時は、船底に這いつくばり、息をひそめるようにして舵を操ります。この舵(ラダー)を煽るように振ると推進力を生じるのでレースではラダリングといって違反行為となります。とはいえ、目的地に向かって艇を進めるには動かさないわけにはいきません。

ラダリングをしてもトップに立ちたい。しかし監視艇に見つかれば即失格です。強烈な悪魔の誘惑の前にスポーツマンシップは風前の灯です。このような事態にどう対処するか。ヨットレースで学んだことの一つです。つまり、見つからなければ何をやってもよい、と考えるか、自身を戒めながら処するか選択を迫られます。

ヨットの月賦払いのほかにも保管料とか維持費がかかります。そこで、ヨット教室で資金稼ぎをやろうと計画を立てました。
二泊三日の合宿形式で、宿舎は材木座の古刹です。当時夏の海の家に開放していたのです。
わけを話して部屋を借り、昼は実技、夜は寺の広間で座学という本格的な内容です。問題は集客です。当時根城にしていた駅近くの喫茶店に募集ポスターを貼らせてもらったところ、某銀行の若者数名がひっかかり、おっと失礼、応募してくれました。しかも、女性がほとんどという状況に小躍りしたものです。熱が入りましたね。

順調に事が運び、最終日の午後になったころ、ひと騒動持ち上がりました。ヨットがチンしたのです。つまり転覆したのです。最後の仕上げとして講習生が順番に操船していたのですが、操作を誤り波を食らって横転し全員海に投げ出されました。当時あまり普及していなかったライフジャケットを全員装着していたので事なきをえましたが、一人だけ泳げない男子がいて、こいつがしがみついてくるのです。それをあしらいながら、かつヨットの立て直しをするという際どい作業をする羽目になりました。

あとで先輩ヨットマンに聞いた話では、こういう時には、相手を殴りつけて失神させてから作業するのだそうです。そうしないと共倒れになる心配があるそうです。実際のところそんなことができるどうか。まあかなりの勇気がいるでしょうね。

味をしめて翌年も開催しました。この年は古刹の宿舎が使えなくなっていたので会社の海の家を予約してのもぐり営業です。ずい分乱暴な話ですが黙認してくれました。

そのうち仕事の方が忙しくなりヨット教室は立ち消えとなりましたが、いい経験をしました。先生と言われるほどのバカでなし、といいますが、先生、先生と頼られるのは悪い気はしません。ことに相手がうら若き女性とあればなおさらです。その上小遣い稼ぎになるのですからいうことなしです。

気分は別として、この経験は仕事の上でも大いに役立ちました。物事を一から企画・立案し、実行に移し、想定しうる事態に対応する準備をし、いったん事あるときには沈着冷静に処置を行う。海の家でのもぐり営業罪など軽く帳消しにする成果を上げたと確信します。
 
自己弁護に違いありませんが、当時の世の中は、若者に対する寛容さが今より格段にあったと思います。若者がのびのびと活躍する世の中にこそ未来への希望があります。抑制され過ぎた世の中は危険ですらあります。
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キャンプの楽しみ

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   (ほたか牧場キャンプ場)

 キャンプスタイルも年々変わります。当初は原始人さながらの生活。犬連れのときはテント泊。犬の代わりに孫が登場してからはキャビン、それも温泉のあるところを選んでいるので昼風呂の楽しみが加わりました。涼風に吹かれながら露天風呂に浸かっていると、日本いいとこ、を実感します。
教会学校のリーダーをやっていた頃、サマーキャンプにテント泊を加えました。快適さでいえば部屋で寝た方がいいのですが、子供たちはああいう狭い空間が好きですね。夜遅くまではしゃぎまわっています。責任上、リーダーも近くの別のテントに寝るのですが、だらしないことに昼の疲れもあって、子供の声を子守歌としていつの間にか先に寝てしまいます。

でも、朝は別です。真っ先に起きてテキパキと子供たちに指示を与えて威厳を保ちます。
焚き木拾い、朝食の準備をさせ、それが終わると火おこし実習です。彼らは嬉々としてやります。あの連中の中からアウトドア好きが生まれて、今頃どこかで焚き火でもしているかも知れません。多分、サマーキャンプのことを思い出しながら。

そもそもの始まりは、赤城山でのキャンプ泊です。毎年夏休みに小学生だけで山に登り、一週間ほど滞在します。暗くなってから出発し、夜通し歩いて山頂にある大沼という湖畔にテントを張ります。テントといっても、町の運送屋からトラックのシートを借りて、これを竹竿に巻き付けて担いで登ります。調理器具は飯ごうだけで、これですべての煮炊きをします。

コメと味噌は持参しますが、それ以外は現地調達です。とはいえ店があるわけではありませんから、途中にある畑が調達先です。それもあって出発が夜なのかもしれません。気の利いた子がいると立派なスイカが行列に加わりました。蛋白源は、川や沼の小魚だけです。釣果が無い時には味噌を甞めながらの食事です。コメが無くなると仕方なしに下山です。

ある時、湖畔に朽ちた舟を発見しました。一丁櫓の和船です。水を掻い出して沖に出ました。困ったのは帰るときです。出るときはどこに向かってもいいのですが、帰りは目的地が決まっています。思うように舟が進みません。水をせっせと掻き出さないと沈みそうですし、泣きべそをかきながら夕暮れの岸にたどり着いたときは全員討ち死に寸前の状態でした。

今思うと、キャンプ自体からして無鉄砲きわまる行事です。そんな事を許した親や世間は度胸がいいとしか言いようがありません。
しかし、これで得た経験は貴重なものでした。子供なりに状況判断し、それに対応する能力を否応なく身につけたと言えます。

キャンプ装備にあまり拘らないのは、こんな経験からきているかもしれません。
時々見かけますが、大袈裟な装備でキャンプをしている人が結構います。あれでは日常生活と少しも変わるところがありません。キャンプ場では不自由さを楽しむゆとりが欲しいものです。

キャンプ場では、よくトレッキングやジョギングを楽しみます。その点スキー場のキャンプ地は好適です。大抵花畑などになっているので恰好のフィールドになります。玉原高原ではラベンダー畑を走りました。いい香りに囲まれて快適でした。しかし、早曉に走ったのですが、朝早くから出勤する職員にイエローカードを出されてしまいました。

食事も楽しみです。焚き火をしながらついでに食事をするといった按配です。何でも網焼きで済ませます。定番はバーベキュウですが、岩塩を刷り込んだ大きめのスペアリブが一番のご馳走です。じっくりと遠火で焼いた肉をむさぼっているとまるで縄文人の気分です。
朝も早くから焚き火です。定番はスープとパン、それにソーセージ位のものですが、コーヒーを啜っていると、西部劇のシーンを思いおこします。夜の縄文人から朝はカウボーイに変身します。

キャンプというのは、自然に溶け込んだ非日常的な暮らしが一番楽しいということです。あまり凝ったことをしないで、自然のなかでゆったりと過ごすほうが理に適っています。
さあ、キャンプに出かけて焚き火を楽しみましょう。といっても畑荒らしは禁物です。
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ドリのいた日々(3) ドリ倒れる

ドリ畑
   ( 夏みかん畑で息子のギターに聞きほれるドリ )
 優等生ドリにも欠点はありました。それは犬舎に絶対に入らないことです。地下道育ちですから閉鎖空間が嫌いなのかも知れません。結局、ドリの寝場所は庭の梅の木の下となり、雨が降ると縁の下に潜り込んでいました。

休日には、パン屋さんの開業時間に合わせて散歩しました。ある日、バス停に腰を下ろして何気なく「ドリも食べるかい?」と言いながらパンを千切って与えました。これが失敗でした。以来休日になると(こちらの挙動で分かるらしい)パン屋行きを要求し、帰りにはサッサとバス停に先行し、お座りをしてこちらを見上げます。
ドリはパンが大好きでした。

朝の散歩は、いつの間にか私の役目となりましたが、早朝暗いうちからの散歩には楽しみが沢山ありました。
時期になると、山菜摘みや竹の子掘りのため山道を歩き回りました。こういう時に犬連れは何かと好都合です。早朝スコップや収穫袋を持ってウロウロしていれば間違いなく不審者扱いされます。竹の子掘りの時など特にそうです。周囲に目を配り、掘り易そうな斜面に生えている竹の子に素早く近寄り、手早く犯行に及びます。

こんな時に人が近づいてきたら、素知らぬ顔をして犬の糞の始末をしているフリをすれば事なきを得ます。山の中の竹藪であっても持ち主はいるわけですから、それなりに気を使います。

元気一杯のドリに変調が見られたのは12才のころでしょうか。グランドを走り回っている最中に突然バタリと倒れこんだのです。何度かこんなことがありましたが、立ち上がるとまた元気に走り出すのであまり心配もしないでいたのです。

一気に悪化したのは、家内が海外旅行中のことでした。突然食欲をなくし、何も食べなくなりましたので驚いて獣医院に入院させました。点滴のせいかすこし元気を取り戻しましたが、依然として食べずに苦しそうです。私や子供が見舞うと尻尾を振って喜びますが、いつも誰かを待っているような素振りをし、入口のほうで音がすると急いで首を回します。
多分ドリは、だれも苦しみから救ってくれないので、このところ顔を見せていない家内に期待したのではないでしょうか。家内が来てくれれば何とかなる、そんな望みをもって待っていたと思われます。

しかし、事態はさらに悪化し、獣医さんから安楽死という選択肢もあると言われ悩みました。これ以上の苦しみを与えても何の意味もないと判断し、注射をしてもらったのは夜の10時過ぎでした。病理解剖の結果は脾臓のガンでした。背中の方にあり、見つけにくい場所だそうです。
そういえば、背中をさすってやると気持ちよさそうにしていたことを思い出しました。

冷たくなったドリを居間に横たえて一晩添え寝をしてやり、翌日埋葬のため大井町田近郊の夏みかん畑に向かいました。運転中、とめどもなく涙が流れでます。
なぜ、これほど涙が出るのか。勿論別れの辛さや悲しみでしょうが、それだけではないような気がします。一つには悔恨の思いです。死に至る病をなぜ見抜けなったのか、そのうえ安楽死という手段でドリの命を奪ってしまったこと。

一方で、ドリへの憐憫の情です。犬は人間の言葉を話せません。だからこそ、人間のほうから犬の全てを察知してやらねばならぬ義務があります。犬を飼うということは、そういうことであります。こんな不甲斐ない飼い主に出会ったドリがかわいそうでなりませんでした。

畑についても涙はとまりませんが、埋葬のため墓穴を掘りました。深く、深く穴を掘り、底にシーツと毛布を重ねてドリを寝かせ、無意味なことと知りながら好物のパンを口の脇に置いてやりました。
全ての作業を終えたあと、土饅頭の隣に腰を下ろし、眼下に広がる相模湾をぼんやり眺めていました。上掲の写真のドリが座っている場所がその埋葬場所です。

私の信仰によれば、天国というところは全ての涙を拭い去ってくれるところです。また、望めばなんでも叶えられる場所です。天国ではドリに会える、天国に行けるように生きよう、そんなふうに気持ちの区切りをつけて暮れなずむ畑をあとにしました。

蛇足ながら、私に車の中には銀のロケットが吊り下げてあります。中身はドリの尻尾の毛が少し入っています。こうすることで車好きだったドリと一緒に走っている気になります。せめてもの罪ほろぼしであります。   
                             (完)
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プロフィール

たちばな屋善作